有機栽培の豊かな実りは土作りから -弥栄の通販-
トーマス菌が誕生した経緯 -EM菌、アーゼロン
アメリカの若き医師アープ・トーマスは、「食糧の健全なる栄養源は、土壌にある」と確信して各地の土壌を研究していく中で、豊穣な土壌ほど多くの微生物が存在していることに気づきました。
以来、トーマス博士は半世紀にわたって土壌バクテリアに関する研究を重ね、南北アメリカ大陸はもとより世界各地でバクテリアの採集に没頭。
その間、合衆国政府及び各大学の支援を得て数々の実験を繰り返し、1905年、誰もがなし得なかった土壌バクテリアの利用法と、バクテリアの純粋培養に成功したのです。
また、トーマス博士は、フランスのパスツール研究所にも度々出向して乳酸菌の研究にあたり、人類の腸内で生存できる乳酸菌を発見。これを『アシドフィラック』と命名しました。この事は、世界中の医学界から称賛され、パスツール研究所の文献にも記載されています。
そして1911年には、トーマス・バクテリア群が農業用として優れていることがパスツール研究所にて発表されました。
1953年、トーマス博士は、有機物質の発酵機を発明し、これを『アープ・トーマス・ダイゼスター』と命名、世界に発表しました。
このダイゼスターは、1日~3日で優秀な有機肥料を製造できる装置です。バクテリアの発酵メカニズムに最良の環境を与え、短時間で有機物質の分解を可能にしたものです。
当時トーマス博士は、都市ゴミをダイゼスターマシーンにて製造した有機肥料を、"オルガノ"と称し合衆国の各地農場に提供しています。
以下、このトーマス菌が日本でどのような経緯をたどったのかについてご説明します。
トーマス博士には、小森丈輔氏という日本人の友人がいました。小森氏がトーマス博士の研究に資金援助をしていたと言われています。
トーマス博士は小森氏に感謝して、彼にトーマス菌の日本と東南アジア全域での販売権を委譲しました。
小森氏は、大正末期から昭和初期まで日本国内でトーマス菌とそれを利用した堆肥づくりを指導し、多くの成果を上げましたが、途中で第二次世界大戦に突入。日米間で物資の交流が途絶え、彼の活動は中断となりました。
戦後になって、老先短かった小森氏は、自分が亡き後のトーマス菌の普及活動を甥の岩井鉄三氏に託しました。
しかし新聞記者だった岩井氏には農業知識がなかったため、岩井氏の知人であった門馬義芳氏が岩井氏を役員に引き入れて「日本ライフ」という名称でトーマス菌の販売会社を作ったのです。
ところが、戦後の日本農業は化学肥料万能主義に陥っており、農業資材に微生物を使うことなど見向きもされず、経営はなかなか軌道に乗りませんでした。
日本ライフ社は現在でも「アーゼロン」という商品名で微生物菌体を販売しています。
現在ある日本ライフ社のパブリシティ媒体には岩井氏の名前は一切登場していません。ただ、「アメリカのアープ・トーマス2世と会って、トーマス・バクテリア群を使用するために販売契約を結びました」と記されているものがあります。
岩井氏は門馬氏と袂を分かって日本ライフから身を引いていたのです。
時は流れ、昭和50年代になってからの話。岩井氏の知人が「トーマス菌をなんとかできないか」と相談を持ち込んだのが、千葉大学で農業の研究活動をしていた曽田陽彦氏でした。
それ以降、曽田陽彦氏はトーマス菌の研究活動に没頭。
そして、トーマス菌にオルガ菌を付加し、特殊工法によって液状化に成功。「アープ・トーマス菌」は「アープ・トーマス・オルガ菌(ETO菌)」となったのです。
しかし曽田氏は事業家ではなかったために、彼の力ではトーマス菌を世に広めるところまでには至りませんでした。
その間に年号は平成に変わり、世の中ではアーゼロンやEMが先にクローズアップされていました。
平成8年、曽田氏と運命の出会いを果たしたのが、栃木では名の知れていた農業高校出身の実業家、大橋伸一氏でした。